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ワシントンロックンロールマラソンから1週間が経った。
この間、大学が休みだったこともあり、比較的静かに自分と向き合うことができた気がする。
仕事をしながら、走りながら、ずっと考えていたことがある。

昨年の12月7日、那覇マラソン終了後、宿泊先に戻った僕は以下のように心境を綴った。

*レース中、タレて行く情けない自分を眺めながら、「もうマラソンやめようかな」、「やっぱり向いていないんだよ」、「こんな無様な姿を世にさらけ出すくらいなら、もう完全な趣味として、レースには出ずにたらたら走ればいい」、「マラソンってきついだけで楽しくないな」などと考え込んだ。
僕は自分がそう思ったことを責めない。心の雄叫びだから。
しかし、これからどのようにマラソンと付き合っていくかに関しては落ち着いて、真剣に再考する必要があると、レース終了から3時間半が経過した現時点では考える。
自分の人生にとって、マラソンとは何を意味するのだろう。
「人生」と「走ること」の関係性についてはすでに整理・定義できている。
今後ブレることはないだろう。ただ「人生」と「マラソン」の関係性については、これを機に本腰を入れて考えてみたいと思っている。*

いま、ここ、わたし。

この問いに対する1つの答えが見つかったような気がする。

問いを前にして、この1週間、頭のなかを空っぽにして、ただ心のなかでイメージしていた。
あるとき、1人の大切な人から聞かれた。

「何を考えて走っているの?何に突き動かされて、足は動いてるの?なんで一歩を踏み出すの?」

僕は少し考えて、この1週間心のなかでイメージしてきたプロセス、というより、この3ヶ月間頭のなかで悩みつづけた葛藤が1つのベクトルに収縮していくのを実感しながら、思いを言葉に変えた。

*生まれてきたこと、生きていること、生きていくことの意味に向き合うためには、足を動かして、前に踏み出すことが必要なんだ。
不器用な僕には、マラソンを走ることを通じてしかその意味に向き合いきれない。
そして、真に自分と向き合いきれるのは、マラソンを走ることを通じてしか達成されない。
それが理由だと現段階では思う。*

*ランには「追い込む」という表現がある。
僕にとって、真に己を追い込めるのはマラソンを通じてのみだ。
極限まで自分を追い込むにはマラソンを走るしかない。*
*他者や社会は己を極限まで追い込まない。時代も、環境も。
だからマラソンを走るしかないんだ。人間、極限まで追い込み、追い込まれたときにしか本当の自分は見えない。そう思っている。*

あくまでも、現段階においてこう思っている、ということに過ぎない。
この思いがブレるかブレないか、すべてはこれからの自分次第だ。

人生という名のマラソンを走っていくうえで、1つの中継地が見えてきたことに、胸を撫で下ろしている自分がいる。

と同時に、目的地はもっと深いところにあって、いまはまだそれが見えないということに、緊張しつつも、興奮し、無性に汗ばむ自分がいる。

2015年3月21日 ワシントンDCの自宅にて