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いつだってそうだった。

苦しくなったり、やりきれなくなったりすると、
景山公園に来て、北京の街とにらめっこしながら、己に問いかけた。

「おまえは何でこの街に来たんだ?」
「北京はこれだけ変わった、おまえは変わったか?」
「これまでやってきたことにプライド持ってるか?」
「これからやろうとしていることに、自信はあるのか?」

中国首都北京の中心、いや、いまとなっては世界の中心といってもいいかもしれない。
天安門、故宮の北側にその公園はある。
小高い丘になっている。
駅伝選手出身で、今も走っている僕なら、全力ダッシュで2分もあれば、丘の頂上にたどり着ける。
そこから見えてくる世界は格別なんだ。
今世界で最も変化が激しいようで、落ち着いている場所、北京の東西南北が一望できる。
いつも夕暮れ時に駆け上った。
空気が悪いから、少し霧がかったようになって、そんな中暮れていく夕日が、
僕を落ち着かせてくれた。
東のほうに高いビルが建っていく。
天気がよければ、視力が子供のころから変わっていない僕には、20キロくらい離れた
北京五輪会場「鳥の巣」もかすかに見える。
西と南は北京の中では少し劣っている。
五輪後も開発が期待される。
公園の周りは変わっていない。
これからも変わらないのかもしれない。
変わっていくようで何も変わらない。
変わっていないようで変わってる。
大国ってそうなのかな。
文明って、そういうもんなのかな。

駅伝に取り組んでいた高校時代、長野県の車山高原で夏合宿していたころを思い出した。
高いところにいるから貧血になりやすくて、ちょっとスピードを上げただけでくらくらする。
思いっきり上った後、下りにかかっても、平らな道を走っているように感じちゃう。
思いっきり下った後、平らを走ると、逆に上っているようでがっかりする。

なんだか今の北京と僕の関係みたいだ。

2003年4月、SARSがピークの時に、何も持たない、何者でもない僕は北京に降り立った。
空港から出田後の第一印象は「黄」だった。何もかもが大きくて、飲み込まれそうで怖くなった。
中国語は一生懸命やった。
僕にとってのパスポートだったから。
翻訳をやって生活費を稼いだ。
お金がなくなって、飢え死に寸前で、北京駅の前で一週間乞食をやったこともあった。
どん底から這い上がることの意味を、僕は祖国で教わり、異国の地で実践した。
両親に感謝したい。
そして、北京にも。
北京大学で国際関係学を学びながら、まさか自分がメディアの現場に
出て行くことになるとは思わなかった。

北京も五輪開催に向けて開放化、多様化していた。
第三者の視点を必要としていた。
中国の改革開放と日中関係という二大テーマが、僕の背中を押してくれた。
以来、僕は言論人として毎日コラムを書き、コメントを発信していくことになる。
すべてはゼロから始まった。すべては想定外だった。
でも確かに起った。
一日も休ま突っ走ってきた。
今振り返ると、何も発生していないかのようだけど。
これから北京は何処へ向かうのだろう。
たくさんのヒトに聞かれる。
己の良心にも聞いたことがある。

「国民の利害関係、価値観も含めて、開放化、多様化の方向に傾いていくことは間違いない。
しかし、それが自由化、民主化につながるとは限らない。そこに体制の矛盾が内包されている。
中国改革にとってはジレンマです」

なんて、格好つけることは可能だ。
でも、本当は分からない。
僕の恩師である胡錦濤さんでも分からないだろう。
イメージや予測は出来ても、自信が無い、根拠に薄い。
中国という大国を、文明を語る
ということは、それだけ責任が伴うということ。
多くのヒトを幸せにもするし、不幸にもしてしまう、ということだ。
だから、僕はいつも緊張している。
恐怖に怯えている。
でも止められないのは、中国という文明が理解しようとすればするほど神秘的で、近づこうとすればするほど、
遠のいていくような、そんな存在だからなのかな。
一種の麻薬かもしれない。

自分は何処へ向かうのだろう。
2010年は僕にとって特別な年だった。
大学院を卒業した。
中国から国民栄誉賞「時代の騎士」称号をいただいた。
一番苦しんだ年だった。
一番納得した年だった。
総括の年だった。ある意味集大成の年でもあった。
僕の2011年を予測するには、まだ早すぎる。
2010年がまだ3日残っているから。
その3日間をどう走り抜けるか。
僕のキャパシティーでは、今はそれしか考えられない。
人生という名のマラソン。
大きなピクチャーは描きつつも、一日一日を一生懸命生きることだけに
全神経を集中させる。
あとは自然体でいい。
己の感性を信じてあげればいい。
北京でもがいてきた過程で得た教訓だ。
大切にしたい。
少し疲れてきたから、この辺で充電が必要なのかもしれない。
でも自分は走り続けちゃうんだろう。

日本にいる母親はいつも心配している。
異国の地で生活する人間にとって、親孝行って何なんだろう。
時々考える。
2010年、僕は大切な父親を亡くした。
波乱万丈の少年時代だったけど、
父親は自分が北京に単身で乗り込み、
そこを戦場に闘うことを誰よりも支持してくれた。
今このとき、僕は天国にいる父親に自信を持って言える。
「いつも前だけを見て、走ってきた。
やれることは全てやった。後悔はない」と。
父親が逝く前に自分に言った。

「前だ。前だけを見るんだ。走れ。歴史がお前を選んだんだ。。」

僕が北京に来た理由、北京でやってきた意味。
それを考えるにはまだ早すぎる。
それに、そんなこと歴史が判断すればいい。
ひとついえることは、これまでも、これからも、
僕と北京の我慢比べ、綱引きは続いていくということ。
このあと北京を離れたって、アメリカに行ったって、日本に帰ったって、僕は中国語での自己表現を続ける。
中国という文明、そこで生活を営む人たちと、交わい続ける。生涯のミッションだから。
これから益々大きくなる、危険なマーケット。楽しみでならない。

最後に、第二の故郷であり、僕が生きている限り付き合っていくであろう北京へ一言。
ついてこられるものなら、ついてきてみろ。

2010年12月29日 北京の自宅にて
加藤嘉一